掴めなかったものをメモするあのノート
むかし,数学の人が私に一冊の小さなRHODIAのノートをくれた。オレンジの表紙で,手のひらに乗るくらいの大きさの薄っぺらいやつだ。
表紙をめくったところに,油性のマジックでメッセージが書いてあった。アイディアが逃げていくあなたのためにこのノートをあげます,とあったようにおもう。
結局,大したアイディアをメモすることもなく,あのノートは北京で捨ててしまった。もしかしたら捨てるべきではなかったのかもしれない。思想のかけらはどんどん通り過ぎていった。書き控えておくべきものはたくさんあった。でも,そのノートにこだわらなかったからこそ生まれた新しいものもある。それは例えば,これからの話題を話したい人たちであるとか。だからやっぱり捨ててよかったのだとおもう。
でも数学の人からのメールは消せない。そこにはおそらく,私の生き方にとって大切な意味のあったあまりに濃くて重いものがたくさんあるから,消してしまったとき自分に変化が起きないとも限らない。その変化が,影響の深刻でないものならよいが,そうはおもわないうちはやはり手放さないほうがいい気がする。
最近はいつもシャワーを浴びているあいだに,なにか自分は天才じゃないのかとおもうような恐ろしくわくわくすることを思いつく。それを控えないのは損だ。あのノートはもうないが,アイディアが逃げていく私の性格は変わっていないから,改めてメモをするようにしていかなければならない。そのくらい話したい人ができたのだから,それでいいのだ。雑でかまわないとおもっている。こだわると続かないのだ。続けたほうがいい。もうこれからは後悔できない。したくないの意味だ。