子猫を集めて積む

暫定手控えより正直に書くつもりの記録。言葉だけは惜しまない。

抱負

年を越して,携帯電話が最近おかしい。iOSの更新も完了できないが(已下载だけど安装不了),後にも書くようにそれだけではない。どうやら写真を整理せずに撮り続けた上に微信のチャット履歴もじわじわと積み重なり,空間を圧迫していった結果,なんとか平気だよという顔をずっとしていた我がiPhoneがついに狂ったらしい。

 

考えてみれば,一ヶ月前にはまだあった「空間が少ないからこのままだと正常に使えなくなるかもよ,ねぇどうする?」というポップアップも,「今は気にしない」という選択肢を選びがちになってしまった。たしかに,気がつけば出現さえしなくなっていた。私は,こいつが余力を絞って伝えようとしていた疲れの合図を,ときどき十数枚程度の写真を削除してやることで気を遣えていると思い込み,あまりにもすげなく忽略していたのだ。

 

微信はまともに使えず,QQ音乐で音楽を聴くとなぜか勝手に音楽ファイルが自動ダウンロードされており,どんどん容量を食っていく。そしてこいつは自分で自分をさらに圧迫して狂う。パスタをゆがくときのタイマーは全く鳴らなくなった。勝手にカウントダウンを終えて疲れて黙っているこいつが鍋のそばにいるだけ。facebookは「いいね押す」をしても結局押せていないようだ。最近fb上で私が無反応なのは,私が反応していないのではなく,私の反応を伝えるエネルギーがこいつに残っていないのだ。しまったと焦って写真や動画を消して負担を取り除いてやりたくても,もう表示して見せさえしてくれない。一万数千の写真があったアルバムは,空っぽだということにされてしまった。こいつが一人で抱え込んで,何もかも無かったことにされてしまった。

 

四年ほど前のうつになった私と同じ状況だから,こいつを責める気は全く起こらない。むしろ,与える薬もなければ休ませることもできないのが,申し訳ない。いまこいつを休ませることは,私を休ませないことになってしまう。ほんとうに済まない。

 

北京で出会った友だちの多くは,私が比較的社交的でお酒が好きで少し面倒くさい明るめの人だとおもっているのではないか。間違いではない。日本で知り合った古い友だちの一部は,私が暗くて感情の起伏が目立たず何を考えているかわからないけれどもときどき楽しそうにしている少し面倒くさい人だとおもっているのではないか。それも間違いではない。別になにを暗示しようとしているわけでもない。ただ,現在進行形の事実としては,私は部屋に機内持ち込みサイズのスーツケースいっぱいの抗うつ剤と睡眠薬を飲まずに隠している。帰国するときに捨てるだろう。

 

四年前に精神状態の針が振り切れてしまい強制的に休まなければならなくなったときは,あきらかに研究上のストレスと研究室上のストレスが大きく強く影響していたが,決してそれだけではない。この半年のあいだ辛抱強く時間をかけて,自分の過去や精神性について観察してみてやっと少しずつわかってきたが,生まれ育った環境の中で私が受けてきた精神的抑圧や否定の影響は,とてもとても大きいようにおもえる。物心ついたときから,自分の「~たい」ではなく「~べき」を優先するようになっていた。言うならば,レストランに連れて行かれても自分の食べたいものが選べないのだ。「選ぶべきもの」を探してしまう。なぜなら,「~たい」は「横着」「わがまま」「自分勝手」だと言われ,叱られ,怒られ,否定されてきたからだ。その否定と,自分の「~たい」を諦めることとの辛さを比べるときに,迷わず自分の本当の「~たい」を放棄するような人間になってきた。だから,大人になってからもいつだって,私は本当にしたいことをしているわけではない。そのため,表面的には芯がよくぶれているように見られる。我は強いのにころころ意見や気分が変わる人間だとおもわれてしまう。でもそういった私の一連の態度は,大抵の場合本気や本心ではない。自分の「~たい」「~たほうがいい」に従うのが怖くて,それらを全て抑圧して「~べき」を手探りで掴み取ろうとした挙句,「自分がいいと思ったこと」ではなく「人がいいと思うのではないかと自分が思ったこと」をしているのにあたかも「自分がいいと思ったこと」を気ままにしているような人間だと「人」に捉えられてしまい,誤解され,歪みが生じ,最後には何もかもがうまくいかなくなる。ややこしいがおそらく毎回それが繰り返されている。

 

いい関係を築けていて,なにかあるごとに気にかけてくれる友人もいる。そういう相手と自分がどう接しているかというと,なんとなくだが,「自分がいいと思うこと」に対して正直にふるまえているような気がしている。私が本当の意味で自分らしくすれば,きっと人として魅力的なんだ。そう思ってみるのが健康的なのではないかと,少しずつ感じてきた。

 

昨日友だちと話していて,2017年の目標はなに?という話題になった。 言語化するほうがいいかもしれないので無理に言葉にしてみるなら,私の今年の抱負は,自分の好きなものや好きなことを肯定してやり,自分のしたいことをさせてやり,自分をかわいがる,ということだ。 意図的に多めにエゴイズムを発揮し,意図的にナルシストになる。でもそれは“本物”のエゴと“本物”のナルシシズムでなければならない。でもそれはおかしな意味ではなくて,「本当に自分が食べたいものをレストランのメニュー表から選んで食べ,うれしい気持ちを正直に受け止める」ということをただできるようにすることに他ならない。

 

それと関連があるかはわからないが,中国でiPhoneを持ち始めて中国人が大好きなように自撮り=自拍をふざけて繰り返していたら,次第に精神的に健康になってきた気がしている。もしかして,ある意味で自己肯定感が湧いてきたということだろうか。

 

友人が言った「やりたいことだけやる。付き合いたい人とだけ付き合う。聞きたい音楽だけ聞いて,やりたい音楽だけやる。読みたい本だけ読んで,好きな方法論で,書きたい論文だけ書く。これ徹底しようとすると色々行動原理がはっきりする」というのも,多くのひとにとって当たり前なのかもしれないが,いま初めて意図的に取り組んでみることにする。

 

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