子猫を集めて積む

暫定手控えより正直に書くつもりの記録。言葉だけは惜しまない。

掴めなかったものをメモするあのノート

むかし,数学の人が私に一冊の小さなRHODIAのノートをくれた。オレンジの表紙で,手のひらに乗るくらいの大きさの薄っぺらいやつだ。

 

表紙をめくったところに,油性のマジックでメッセージが書いてあった。アイディアが逃げていくあなたのためにこのノートをあげます,とあったようにおもう。

 

結局,大したアイディアをメモすることもなく,あのノートは北京で捨ててしまった。もしかしたら捨てるべきではなかったのかもしれない。思想のかけらはどんどん通り過ぎていった。書き控えておくべきものはたくさんあった。でも,そのノートにこだわらなかったからこそ生まれた新しいものもある。それは例えば,これからの話題を話したい人たちであるとか。だからやっぱり捨ててよかったのだとおもう。

 

でも数学の人からのメールは消せない。そこにはおそらく,私の生き方にとって大切な意味のあったあまりに濃くて重いものがたくさんあるから,消してしまったとき自分に変化が起きないとも限らない。その変化が,影響の深刻でないものならよいが,そうはおもわないうちはやはり手放さないほうがいい気がする。

 

最近はいつもシャワーを浴びているあいだに,なにか自分は天才じゃないのかとおもうような恐ろしくわくわくすることを思いつく。それを控えないのは損だ。あのノートはもうないが,アイディアが逃げていく私の性格は変わっていないから,改めてメモをするようにしていかなければならない。そのくらい話したい人ができたのだから,それでいいのだ。雑でかまわないとおもっている。こだわると続かないのだ。続けたほうがいい。もうこれからは後悔できない。したくないの意味だ。

抱負

年を越して,携帯電話が最近おかしい。iOSの更新も完了できないが(已下载だけど安装不了),後にも書くようにそれだけではない。どうやら写真を整理せずに撮り続けた上に微信のチャット履歴もじわじわと積み重なり,空間を圧迫していった結果,なんとか平気だよという顔をずっとしていた我がiPhoneがついに狂ったらしい。

 

考えてみれば,一ヶ月前にはまだあった「空間が少ないからこのままだと正常に使えなくなるかもよ,ねぇどうする?」というポップアップも,「今は気にしない」という選択肢を選びがちになってしまった。たしかに,気がつけば出現さえしなくなっていた。私は,こいつが余力を絞って伝えようとしていた疲れの合図を,ときどき十数枚程度の写真を削除してやることで気を遣えていると思い込み,あまりにもすげなく忽略していたのだ。

 

微信はまともに使えず,QQ音乐で音楽を聴くとなぜか勝手に音楽ファイルが自動ダウンロードされており,どんどん容量を食っていく。そしてこいつは自分で自分をさらに圧迫して狂う。パスタをゆがくときのタイマーは全く鳴らなくなった。勝手にカウントダウンを終えて疲れて黙っているこいつが鍋のそばにいるだけ。facebookは「いいね押す」をしても結局押せていないようだ。最近fb上で私が無反応なのは,私が反応していないのではなく,私の反応を伝えるエネルギーがこいつに残っていないのだ。しまったと焦って写真や動画を消して負担を取り除いてやりたくても,もう表示して見せさえしてくれない。一万数千の写真があったアルバムは,空っぽだということにされてしまった。こいつが一人で抱え込んで,何もかも無かったことにされてしまった。

 

四年ほど前のうつになった私と同じ状況だから,こいつを責める気は全く起こらない。むしろ,与える薬もなければ休ませることもできないのが,申し訳ない。いまこいつを休ませることは,私を休ませないことになってしまう。ほんとうに済まない。

 

北京で出会った友だちの多くは,私が比較的社交的でお酒が好きで少し面倒くさい明るめの人だとおもっているのではないか。間違いではない。日本で知り合った古い友だちの一部は,私が暗くて感情の起伏が目立たず何を考えているかわからないけれどもときどき楽しそうにしている少し面倒くさい人だとおもっているのではないか。それも間違いではない。別になにを暗示しようとしているわけでもない。ただ,現在進行形の事実としては,私は部屋に機内持ち込みサイズのスーツケースいっぱいの抗うつ剤と睡眠薬を飲まずに隠している。帰国するときに捨てるだろう。

 

四年前に精神状態の針が振り切れてしまい強制的に休まなければならなくなったときは,あきらかに研究上のストレスと研究室上のストレスが大きく強く影響していたが,決してそれだけではない。この半年のあいだ辛抱強く時間をかけて,自分の過去や精神性について観察してみてやっと少しずつわかってきたが,生まれ育った環境の中で私が受けてきた精神的抑圧や否定の影響は,とてもとても大きいようにおもえる。物心ついたときから,自分の「~たい」ではなく「~べき」を優先するようになっていた。言うならば,レストランに連れて行かれても自分の食べたいものが選べないのだ。「選ぶべきもの」を探してしまう。なぜなら,「~たい」は「横着」「わがまま」「自分勝手」だと言われ,叱られ,怒られ,否定されてきたからだ。その否定と,自分の「~たい」を諦めることとの辛さを比べるときに,迷わず自分の本当の「~たい」を放棄するような人間になってきた。だから,大人になってからもいつだって,私は本当にしたいことをしているわけではない。そのため,表面的には芯がよくぶれているように見られる。我は強いのにころころ意見や気分が変わる人間だとおもわれてしまう。でもそういった私の一連の態度は,大抵の場合本気や本心ではない。自分の「~たい」「~たほうがいい」に従うのが怖くて,それらを全て抑圧して「~べき」を手探りで掴み取ろうとした挙句,「自分がいいと思ったこと」ではなく「人がいいと思うのではないかと自分が思ったこと」をしているのにあたかも「自分がいいと思ったこと」を気ままにしているような人間だと「人」に捉えられてしまい,誤解され,歪みが生じ,最後には何もかもがうまくいかなくなる。ややこしいがおそらく毎回それが繰り返されている。

 

いい関係を築けていて,なにかあるごとに気にかけてくれる友人もいる。そういう相手と自分がどう接しているかというと,なんとなくだが,「自分がいいと思うこと」に対して正直にふるまえているような気がしている。私が本当の意味で自分らしくすれば,きっと人として魅力的なんだ。そう思ってみるのが健康的なのではないかと,少しずつ感じてきた。

 

昨日友だちと話していて,2017年の目標はなに?という話題になった。 言語化するほうがいいかもしれないので無理に言葉にしてみるなら,私の今年の抱負は,自分の好きなものや好きなことを肯定してやり,自分のしたいことをさせてやり,自分をかわいがる,ということだ。 意図的に多めにエゴイズムを発揮し,意図的にナルシストになる。でもそれは“本物”のエゴと“本物”のナルシシズムでなければならない。でもそれはおかしな意味ではなくて,「本当に自分が食べたいものをレストランのメニュー表から選んで食べ,うれしい気持ちを正直に受け止める」ということをただできるようにすることに他ならない。

 

それと関連があるかはわからないが,中国でiPhoneを持ち始めて中国人が大好きなように自撮り=自拍をふざけて繰り返していたら,次第に精神的に健康になってきた気がしている。もしかして,ある意味で自己肯定感が湧いてきたということだろうか。

 

友人が言った「やりたいことだけやる。付き合いたい人とだけ付き合う。聞きたい音楽だけ聞いて,やりたい音楽だけやる。読みたい本だけ読んで,好きな方法論で,書きたい論文だけ書く。これ徹底しようとすると色々行動原理がはっきりする」というのも,多くのひとにとって当たり前なのかもしれないが,いま初めて意図的に取り組んでみることにする。

 

――2545

年明け

年が明けた。

2017年最初に手にした本は,村上春樹だった。

2017年最初に耳にした音楽は,バカラックのレコードだった。

2017年最初に聴いたシンフォニーは,シベリウスの一番だった。

2017年最初に口にしたのは,明治のフランボワーズのチョコレートだった。

2017年最初にみた夢は,ひとにお弁当を作ってあげる夢だった。

2017年最初にした返信は,あの子への「あけましておめでとう」だった。

2017年最初の食事は,昨晩みんなで食べた手巻き寿司の残りの酢飯で作ったレタス入りの卵チャーハンだった。

2017年最初にできた友だちは,キッチンで出会ったジャカルタ出身の女の子だった。

 

2016年を振り返ってみると,短いあいだに私の身の回りにはこれまで以上に多くのことが起き,たくさんの新しい友だちもでき,自分のかたちが大きく変わった。関係の新旧や深浅に関わらず,理解しあえる人も誤解しあっている人も私と根本的に合わない人も,どの一人との関係も今日の自分がいるためには欠かせなかったものであると,心からそうおもう。だから,怒りこそすれどもあまりものを恨まず多くのことに感謝できるようになった自分は,周りのひとや環境によく育ててもらえて本当にしあわせな人間なんだなと感じている。

 

そして,この年にもなってやっと「恨まない」のやり方ひとつ身につけて喜んだり,自分の食べたいものが何なのかとうとう少しずつ認識できるようになってきたような,未だに幼稚な自分自身のことも,最近は無理をさせずに可愛がってやろうとおもえてきた。また書くことがあるかもしれないが,2016年に出会った某漫画の5歳児と自分がそっくりだと気付いた日から急に,なぜかむしろ大人になれた気がしている。自分がホンモノのこどもなんだと受け入れたということだろうか。背伸びしなくていい場所で背伸びしても疲れるのはもちろんのこと,背伸びするべき場所であっても,えいっと伸びてみて結局転ぶのでは全く意味がないんだと知った。

 

また一方で,可能なら日本に帰りたくないという気持ちがいよいよ強くなった。お正月に相応しくない話題なのか,お正月だからこそ書くべき話題なのかはわからないが(これは本来FB上に書くつもりだからこのようなエクスキューズがある),私は「帰省」という言葉を使えない。「帰国」「帰阪」はできても,「帰省」は私にはできない。今後できる日が本当に来るのならば,それはどれだけ素晴らしいことか,と辛うじておもえるのが救いなのか,それともしがらみなのか,それもまだわからない。

――1057

喪中

2017年の元日を迎えた。微信の上でも facebook の上でも「あけましておめでとう」が飛び交っている。中国にいると,大晦日から元日にかけての年越しを「跨年」と呼んだりして農暦の「新年」と区別するので,なんだか実感がない。人によっては明日が期末試験だというから,日本人の感覚では信じられないが,これが普通だ。

 

三度目の中国での年越し。日本の年越しの騒ぎ方は嫌いじゃない。一昨年は学校のカウントダウンイベントのようなものに参加して賑やかに過ごした。去年は寮で友人たちとカレーライスを作り,bilibiliで紅白やジャニーズのカウントダウンライブを見ながらビールを飲んで年を越した。今年は,日本人と中国人の友人たちと手巻き寿司パーティーをしたあと,友だちの部屋でレコードを聴きながら静かに年を越した。

 

今年は,大晦日の一日もとても穏やかに過ごした。すきな短編の小説を読み返し,コーヒーを飲んだり部屋を掃除したり,年末に起きた小さなうれしいことをひとつずつおもい返したりして,なんだか理想的な年納めだった。でもなぜか,いざ元日を迎えてみてどこか気が塞ぐ。おかしいな。「笑ってはいけない」をリアルタイムでは見ていないからだろうか?紅白の話題についていけないから?北京の空が汚れて真っ白で,朝から陽の一筋も射さないから?おそらくどれも違う。そして,昼に寮のキッチンで昨日の手巻き寿司で残った酢飯でチャーハンを作って食べながら,ふと,日本の携帯電話を取り出して家族に連絡しようとしていない自分に気がついた。

 

そして更に突然気が付いた。そういえばうちは喪中だ。

 

昨年の5月か6月ごろ,父方の祖母が亡くなったらしい。このことが私の心に起こした波は穏やかなものではない。その意味は,祖母が亡くなったことが辛いというものではなく,私にこの事実が知らされたのが7月下旬だったことが受け入れられなかったということだ。

 

私が夏休みに一時帰国するためのチケットを取って日程を知らせるために母に電話したときだった。「~日に帰るよ」と言った私に対して母が,「そういえば」といって伝えてきた。両親は私に祖母の逝去を2ヶ月近く黙っていたのだ。「そういえばおばあちゃんが亡くなったんよ。あなた夏休み,どうする?」みたいなことを言っていた。

 

どうするじゃねーよあんたなにいってんの,とでも言えたらよかったのだが,そうするわけにもいかず,電話口でひたすら言葉を選びながら何かを言い続け――この相手に通じる言語が少なすぎることがいつも私を気が狂うほどに煩わせる――,結局はしばらく母を罵っていた。2ヶ月も?そのあいだ何度か別件の用事でやりとりもしたはずなのに,なぜその度に黙っていたの?彼女は,こちらが驚き呆れて全てどうでもよくなるほど私の怒りを理解していなかった。「父さんが黙っておけっていったんよ」みたいなことを言っていた。黙っておかないといけない理由も理解できないが,なによりこちらが怒っているのに申し訳なさそうな様子も感じとれないそのときの彼女の語気,それから父が言ったから自分は従っただけといういつもの態度は本当に腹立たしいものだったので,もう思いだすのをやめる。

 

父にとっては自分の母親を亡くしたわけだし,そのために家庭内が混乱してしまい,外国にいてどうせ葬儀にも初七日にも間に合わない私への連絡が数日遅れたとでもいうなら,理解できる。でも2ヶ月はどうなのか?この時間差と「あいつには伝えなくていい」とおもわれていた事実によって,私は祖母の死に対する悼む気持ちや冥福を祈る気持ち,その他の何もかもを抱きそびれた。心の中のどこを浚っても,なにも出てこない。身内が死んでも,もう会えないことが事実でも,他の人――たとえば祖母のそばでずっと世話をしていたおばたちの気持ちを想像してみても,それでもここまでになれるのかと不思議におもうくらい,なにも実感が湧かない。気持ちが陶器のように冷たくつるんとしている。悲しみそびれたのだ。この泣き虫の私が,二人の祖父の葬儀でしくしくわんわん泣いていた私が,いまだに一滴の涙も流せていない。それか,大人になって本当は誰のことも身内だとおもえていないことが,こうして明らかにされたのかもしれない。

 

あの電話のとき頭の中をよぎったのは,この家族は弟が急に死んだって私には知らせないかもしれない,父方の祖母より関係が深い母方の祖母が亡くなっても,まして父母のどちらかや両方がある日死んだって,私が日本の家に帰って家族が誰もいなくて初めて「え,死んだの?」と気が付くようなことを平気でしてくるかもしれない,ということだった。そして,私がどこかで死んでも,その知らせがこなくても,あとから知らされても,この人たちは平然としているのかもしれない。あのこはわがままだったけど,やっぱり最後もわがままだったね,どうしてうちのはあんな風なっちゃったのかね,こっちの気も知らずに,と言うかもしれない。そんな考えばかりが湧いてきて,いっそのこと本当にそうであってくれとおもった。

 

なにが言いたいかというと,家族との関係がとても難しい。しんどい。これまで他にもいろんなことが起きてきたし,進行中でもある。できるのであれば二度あの家に帰りたくない。自分が死ぬことで誰にも迷惑をかけずに縁が切れるなら,そうしたい。2017年元日にまず考えたのはこのことだった。そして,このことを知ってか知らずか,「お母さんに連絡とらないの?」とか「お父さんが入院したなら帰るべきだよ」だとかの言葉を吐きかけてくる人たちのことを,つるんとした白い陶器の心から一人ひとり追い出していることを,そうした幼稚でどうしようもない自分を,どうしても神さまに許されたい。

 

他人の家庭の幸せを垣間見るのは全く問題ない。昔は受け入れられなくて人の幸せに中てられて一人で隠れて泣いていたこともあるが,いまは問題ない。ただお願いだから,私に,家族とはこうあるべきという「いい関係」の価値観を押し付けないでほしい。死んでしまうから。

――2483